これまで、古代オリンピックとオリンピアについて解説した一般書と言えば、『オリンピア ―遺跡・祭典・競技』(村川堅太郎 著・中央公論新社・ISBN:4121000226)だったであろう。この新書は、東京オリンピックを翌年に控えた1963年に上梓されたものであるが、今でも、その古さを感じることなく読むことができる良書と言えるだろう。強いて言えば、本書に掲載された図版がすこし古いのではというところであろう。
2004年、オリンピックがギリシャの地に戻ってきた。8月13日の開会式に滑り込むかのように出版されたのが、『古代オリンピック』(桜井 万里子・橋場 弦 編・岩波書店・ISBN:4004309018)である。本書の構成であるが、オリンピアの遺跡に始まり、競技・祭礼、政治、そして古代オリンピックの歴史と、構成を見る限り「村川本」とさほど変わりがないようだ。しかし、 記述は、古代ギリシャ研究の発展を、とくに1980年代以降の研究成果を踏まえたものであり、1994年9月にオリンピアのトイレの遺構で発掘された青銅版を踏まえた記述もある。さらに、本書の存在を村川本より優位に導くのが、オリンピックの変質を解説であり、現代(近代)オリンピックとの関係に関する一連の考察である。
従来、古代オリンピックの没落は、賄賂・八百長のまん延と競技のプロフェッショナル化などと結び付けられて考えられてきた。しかしながら、賄賂・八百長行為は初期のころから存在していたし、プロと呼ばれる競技者も早いうちから存在していたのである。では、なぜこういった言説が広く正当化されるようになったのか。そこには近代オリンピックを復活させる過程で、古代オリンピックが神話として語られ必要があったという背景がある。
さらに、長い間基本書とされてきた村川本が上梓された時代を考える、ひとつの推測が成立する。つまり、高度経済成長期であり、高度経済成長によって生み出されたひずみを背景に社会運動が盛り上がりを見せ始める時代。村川本はこのような時代に世に出されたものである。賄賂・八百長は資本主義の影の面であり、プロフェッショナル化は資本主義化そのものであるという主張をするのはきわめて簡単なことである※。
現代オリンピックは古代オリンピックとなんらの連続性を持っていない。あるとすれば、それは「祭礼」あるいは「祭典」という非日常的なものとその演出であろう。しかし、本書は過去の研究に対して、そして現代オリンピックに対して批判的な書ではない。古代オリンピックの姿を最新の考古学的、文献学的な研究成果を踏まえ、生き生きと描き出すとともに、古代オリンピックの脱神話化を行った良書であると考える。
蛇足ではあるが、わたしにとっても、古代オリンピックが現代オリンピックとともに語られるときの白々しさの理由が見つかったような気がする。
筆者は決して村川堅太郎氏を批判しているものではなく、氏を特定のイデオロギーに結びつけ、その研究成果を否定するものではない。