
1867年、この地を訪れたJ. E. Hilary Skinnerは、その著書“Roughing it in Crete in 1867”(R. Bentley 1868)で埋葬されていない多くの遺体が、陽に曝されてひからび、あるいは人としての原型をとどめなていなかったと語っている。観光地となった今、修道院の前には、何十台の観光バスが駐車可能な広いスペースが広がり、修道院の中では回廊を飾ざる花が風に揺られ、この陰惨な光景は想像すらできない。 しかし、修道院の壁をよく見ると、数々の弾痕を見つけることができる。また、修道院の庭に立つ木さえ、もしかしたら弾痕かと思わせる数々のへこみを見ることができる。木のへこみが、本当に弾痕なのか、それとも自然のものなのかは分からないが、この修道院で起きた1866年11月の事件を知れば、これは弾痕なのかもしれないと感じてしまう。


弾痕と思しきくぼみ
1930年国際的に独立を認められたギリシャだったが、クレタ島は依然、オスマン・トルコの支配下にあった。1866年11月7日、反乱を鎮圧しようとするオスマン・トルコ軍出動を受けて、多くのレジスタンスとその家族がこの修道院に避難する。籠城は2日間に渡るが、11月9日、籠城を破ったオスマン・トルコ軍が修道院になだれ込むと、修道院内の弾薬庫が爆発。拘束されるならば死を選ぶという修道院長の指示に従った自爆行為であり、ギリシャ独立のスローガン、ギリシャ国旗の9本の線の由来ともなっている「自由しからずんば死を(Ελευθερία ή θάνατος)」をまさに行動に移したものであった。この爆発で数百人が死亡、生き残ったものも、激昂したトルコ兵に虐殺される。この事件はヨーロッパでも報じられ、列強各国の共感を呼び、文豪ビクトル・ユーゴやイタリア独立の英雄ガリバルディは、クレタ解放を支援する声明をだした。この後、幾多の曲折を経て、1913年、クレタは念願のギリシャとの統合を果たす。

悲劇の場所
レシムノンの南西25kmにあるアルカディ修道院は、クレタ、そしてギリシャにとって、正教を超えた聖地と言える。1587年に建てられ、ベネチア・バロック様式の優雅なファサードを持つ修道院は、ベネチア支配時代の遺産であるとともに、支配に対する抵抗の象徴であり、20世紀、ナチス・ドイツの占領下では、レジスタンスをかくまった場所となっている。旧100ドラクマ紙幣の表面にはアテネ女神が、裏面には、古典ギリシャ文学研究で名を馳せ、自由主義者としてギリシャ独立の啓蒙に努めたコライス・アダマンティオスの肖像が描かれている。そして、このアルカディ修道院もまた、コライス・アダマンティオスとともにその姿が刻まれている。ギリシャ独立の象徴として。ユーロ参加の後紙切れとなった100ドラクマ紙幣は、文学、教育、そしてこの二つのギリシャ独立への貢献をテーマにしたものだ。

旧100ドラクマ紙幣
ありまさん
はじめまして。わたしも新婚旅行はギリシャでした。ギリシャぜひ再訪してください。一人でも多くの人がギリシャを訪ね、ギリシャのことを好きになってくれれば、それでこのサイトのささやかな目的は果たしてますし。
ありまさんのブログ、拝見しました。かなりの硬派読書家&旅好きとお見受けました。わたしのほうも、ちょくちょく訪問させていただきます。
初めまして。
ギリシアへは新婚旅行の折、一度行ったきりですが、いつか再訪したいと思っています。
偶然こちらのサイトを見つけ、ギリシアのことを懐かしく思いながら、時々拝見していました。(私、15001人目だったみたいで、ちょっと残念でした! あと数秒早くクリックしてたら15000だったかも)
私が行ったときは既にユーロでしたので、ドラクマ紙幣は見たこともなく、こんな逸話があることも知りませんでした。
読み応えのある文章に、綺麗な写真。これからもちょくちょく覗かせていただきたいので、私のブログの「お気に入り」に入れさせてくださいね。