
イラクリオでレンタカーをピックアップしたら、西に向かって、アルカディ修道院に行く予定だったのだが、市街を抜けるときに高速道路に乗りそびれ、気がつけば南のほうに向かっていた。かなり走っていたのでそのまま車を走らせ、当初はイラクリオに戻るときの帰り道に寄ろうと思っていた、ゴルテュン、フェストス、アギア・トリアダに向かうことにした。この道は、1991年3月25日に、イラクリオで足止めを食らったときに、時間つぶしでフェストス行バスに乗ったときに通った道のはずなのだが、当時の記憶を呼び起こすものは何一つない。しばらく走ると、道沿いにあるオリーブ畑から、デイパックをしょったTシャツ+短パン+サングラス姿の人が何人も出てきて、ここが観光地であることが分かる。途中、道路案内を 見落としたのかもしれないが、ここがゴルテュンと決めつけて車を止める。

紀元前3000年頃に人が住み始めたゴルテュンは、BC1600〜1100年のミノア時代後期に繁栄、その後、紀元前7世紀から紀元前3、2世紀にかけて栄え、ローマ帝政期(1世紀〜5世紀)に属州クレタ・キュレナイカの首都として最盛期を向かえた。ゴルテュンに残るのは、ローマ時代の遺跡を中心だが、ここで見たかったものが二つ。一つは、アギオス・ティトス教会。クレタ島に最初にキリスト教を布教したパウロの弟子、ディトスを悼み6世紀頃に建立された教会。もう一つは、ゴルテュンの碑文。紀元前5世紀の相続や刑法が刻まれている。“The Gortyn Law Code”というと、その筋の研究者にとっては、ものすごく重要な歴史史料らしい。まず、道路を挟んで反対側のオリーブ畑の中にあるローマ時代の遺跡(柵に囲まれて中には入れず)を見て、アギオス・ティトス教会に向かう。旅をして目的のものを見たときに、「思ってたよりデカイ」というのと、「思ってたより小さい」というのが両方ある。建築物はたいてい前者、彫刻のようなものの場合はだいたい後者。たまに逆のパターンもあるが、アギオス・ティトス教会は、思ってた以上に大きかった。教会の天蓋が一部残るこの教会は、824年にアラブ勢によって破壊されたそうだ。
次は、碑文のほうに。「最初はあれ?どこ?」と思ったその碑文だが、ローマ時代の音楽堂の裏手に回ると、鉄格子で守られた壁がある。ギリシャの強い日差しで明るさに慣れた目が、鉄格子に守られた薄暗い空間に慣れるまでちょっと時間がかかる。目を凝らしてみるとビッシリとギリシャ語が書かれている。石に刻まれた文字をじっと見つつ、音楽堂の壁に転用されてもまだ、ここまできれいによくもこれだけ残っているものだと関心。音楽堂を建てた人は、単なる建材としてこの碑文が刻まれた石を使ったのだろうか、それとも何かの意味があったのだろうか? ギリシャ語はローマ人の教養であり、ギリシャ文化はローマ人のあこがれでもあった。多くのギリシャ人がローマに連れて行かれ、そこで、ローマ人にギリシャ語を始めとする教養を教えていた。そんなことを考えると、単なる建材以上に、何か意味があったのかなと勝手に想像する。
この碑文に書かれたギリシャ語。ユニークな並びで書かれていることを後で知った。ギリシャ人はフェニキア人にならい、文字を右から左に書いていたが、しだいに左から右に書くようになる。ただ、移行期には、右から左に書いて行末にくると、次の行はその下から左から右に書くという方法が見られたそうだ。この方法で刻まれたのがこのゴルテュンの碑文。この書き方は、畑を耕す牛の動きに似ていることからブーストロフェードン(=牛の方向転換)とか牛耕式とか呼ばれているらしい。古典ギリシャ語は読めないけど、よく見てみるとそう書かれているような。
lemonodasos さん、こんにちは。
アルファベットの起源が、フェニキア文字ということを考えるとやはりフェニキアは、東地中海世界の文化の震源地だったのかもしれません。
そういえば、フェニキアでゼウスにさらわれたエウロペは、クレタに上陸したあと、ゴルテュンで結ばれて(結ばれたというか……)、ミノスをはじめ三子を授かったいう神話もありますね(三子じゃないというバリアントもあるみたいですが)。この場所が、ゴルテュンのちょっとした見どころになっているというのは、帰国して知りました。残念。エウロペは「ヨーロッパ」の語源とされるので、ゴルテュンはヨーロッパの起源と妄想することもできそうです。
わたしがいったときも、ゴルテュンは暑かったです。へたってしまって、ローマ時代の競技場跡まで歩く気力が湧きませんでした。
昔ここへ行きました。10年位前です。
いやぁ、暑くて歩くのが、嫌になりました。
やはり、フェニキア人というのは、古代では先進国だったのでしょうか?
テーバイの王族もフェニキアから来たとか、
クレタのミノス王はゼウス神とフェニキア王女エウロパの息子だったとか…。
なんとなく出自が当時は問われたのかもしれません。
豊臣秀吉にちょっとにてるかなぁ、なんて思ったりもします