
イラクリオでレンタカーをピックアップしたら、西に向かって、アルカディ修道院に行く予定だったのだが、市街を抜けるときに高速道路に乗りそびれ、気がつけば南のほうに向かっていた。かなり走っていたのでそのまま車を走らせ、当初はイラクリオに戻るときの帰り道に寄ろうと思っていた、ゴルテュン、フェストス、アギア・トリアダに向かうことにした。この道は、1991年3月25日に、イラクリオで足止めを食らったときに、時間つぶしでフェストス行バスに乗ったときに通った道のはずなのだが、当時の記憶を呼び起こすものは何一つない。しばらく走ると、道沿いにあるオリーブ畑から、デイパックをしょったTシャツ+短パン+サングラス姿の人が何人も出てきて、ここが観光地であることが分かる。途中、道路案内を……

アテネに到着した翌日(到着は2:00頃だったので正確には当日)、昼過ぎまでガラチでゆっくりしてエレフテリオス・ベニゼロス空港に向かう。16:30発のオリンピック航空510便イラクリオ行きに乗るためだ。イラクリオ到着予定は17:35、イラクリオ考古学博物館の近くにホテルを取っていて、空港から市内までは車で30分もかからない。なので、時間通りに到着すれば、考古学博物館を1時間半ぐらいみることができる。そんな皮算用がこの日の予定にあった。30分ぐらい前にゲートに行くと、すでに多くの人が待っている。ところが、係員がいつまで経っても現れない。「これは、遅れるな」と思い、案内放送を待っていると、機材の遅れで出発が18:40になる旨の放送。たとえ、ギリシャ人は時間にルーズでのんびりしているとよく言われていても、ヨーロッパのいたるところで時間通りに飛行機に乗ったことのない自分は、……

1867年、この地を訪れたJ. E. Hilary Skinnerは、その著書“Roughing it in Crete in 1867”(R. Bentley 1868)で埋葬されていない多くの遺体が、陽に曝されてひからび、あるいは人としての原型をとどめなていなかったと語っている。観光地となった今、修道院の前には、何十台の観光バスが駐車可能な広いスペースが広がり、修道院の中では回廊を飾ざる花が風に揺られ、この陰惨な光景は想像すらできない。……

翌朝イラクリオンを発ち、アテネに向かう。だからクレタ島で一日を過ごすのはこの日が最後。前日、途中寄り道をしながら、わざわさクレタ島の最東の県、ラシスィ県の中心・アギオス・ニコラオスまで向かったのには訳がある。目的はラシスィ高原。この高原にアクセスするには、アギオス・ニコラオスが便利だ。この高原にはあるものが、たくさんあるらしい。ギリシャでもサントリー二やミコノスで見かけるし、ヨーロッパでもよく見かける。自分は11年前に、スペインのラマンチャ地方にこれを見に行った。今回飛行機で経由した……

オリンピックイヤーだった2004年、数々の雑誌でギリシャ特集が組まれていた。その中でも出色だったのが、“Esquire”の8月号。ギリシャを特集した雑誌で記憶に残るものでは、FIGARO Japonの1997年8月5日号(No.116)以来。“Esquire”の特集はクレタに関する記事もめずらしく充実していてた。この記事の中で気になったのが、ヴーヴェス(記事では「ブーベス」)にあるというオリーブの古木。アテネ・オリンピックでは、その若枝が、最後の種目(つまり、男子マラソン)のオリンピック金メダリストの贈られるオリーブの冠になるということでも話題になったオリーブの古木だ。
パートナーは古木、大木のたぐいを見るのが好きで、自分もこういうのは……

前の日ヴーヴェスという村に行く道を調べるため道路地図を見ていたら、ものすごく気になる地名を見つけた。“Γλώσσα”という地名。なぜ気になったかというと、“Γλώσσα”=「ことば」だからだ。あまりに最初のインパクトがあったので、この村を通ってヴーヴェスに行くことにした。ハニアから向かうには少しだけ遠回りになるけど、通らないと後悔すると思ったので、いぶかしがるパートナーをごまかしながら行くことにした。“Γλώσσα”は小さな村。村の入り口に到着するや記念にはならないけど、この不思議な道程の記録になると、村に入ったことを示す標識を撮影。
具象を表す名詞が地名になっている土地には、いくつか出会ったことがある。印象に残っているものでは、ペロポンネソスの“Καλό Νερό”(良質の水)。クレタの……

マレーメのドイツ人墓地
1941年4月6日、ナチス・ドイツは、ユーゴスラビアとギリシャへと侵攻し、バルカン半島の占領開始した。ギリシャ本土が占領された後も、軍事戦略上重要な島であったクレタ島は、ギリシャ本土から退却した21,000人を含む、32,000人のイギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍の兵士と11,000人のギリシャ人兵士によって防衛され、海上からクレタ島への上陸は、イギリス海軍によって阻止されていた。
5月20日、クレタ島での戦闘が始まった。ナチス・ドイツの攻撃目標はマレーメ、レシムノン、イラクリオンの空港施設とスーダ湾、そしてハニア。マレーメは……

コリントス日帰り旅行の翌日は、アッティカ半島東岸の遺跡を巡る。ギリシャには何度か訪れながら、世界史の教科書でおなじみのマラトンに行ったことはなかったし、ブラウローナ(ブラウロン)にも行ってみたかった。ついでなので、マラトンの北のラムヌウス(ラムヌース)にも行ってみることにした。ところが、ブラウローナも、ラムヌウスも公共交通の便は限られていて、この3つをバスを乗り継ぎながら一日で回るのにはちょっと無理がありそう。そこで、奮発してタクシーを一日借り切ることになった。タクシーは、日本人スタッフ(Yokoさんだったかな?)のいるアテネのアンフィトリオン(Amphitrion)に直接出向いて手配をしてもらった。200ユーロぐらい。当時のレートで、……

ナクソス島で二泊した後、パロス島に渡った。この島では完全にリゾートモード。島の南西にあるセルダキアのリゾートホテルを拠点に、パロス島内観光を楽しむ。島の北のナウッサは、ギリシャの島のなかでももっとも美しい漁村と聞いていてたので、早速この日の午後はバスに乗ってナウッサに。バスは終点の直前で立ち往生。いったい何かと思いきや教会の周りに黒山の人だかり。人ごみをどけながら、なんとかかんとかバスは停留所までたどり着き、バスを降りるなり、黒山の人だかりのできている教会の方に向かった。
いったに何が起きているかわからない。教会の周りには鈴なりの人が集まっているし、ホテルやペンションのベランダからも観光客が教会の方に注目している。教会を出たところには、民族衣装を着て、花カゴをもった……

鉄道ファンにはいろいろなタイプがあるそうだ。「見る」「乗る」「乗りつぶし」「時刻表」「車両」「研究(鉄道史や廃線)」「写真」「切符」「収集(車両部品から駅弁の包み紙まで)」「模型」、そしてこれらの複合タイプ。自分も鉄道は好きだし、実のところ、小学校高学年から中学校のときは、当時の国鉄がやっていた「いい旅チャレンジ2万キロ」というキャンペーンで国鉄路線踏破を目指したり、今は見かけなくなった硬券の切符を集めたりしたこともある。大学生時代にヨーロッパを旅行したときは、ユーレイルパスを使って鉄道で移動していたし、なによりも、はじめての海外旅行はシベリア鉄道だ。旅が好きだから鉄道が好きになったのか、鉄道が好きだから旅が好きになったのかはわからないが、……
フランクフルトでの乗り継ぎ便が6時間遅れ。アテネに到着したのは深夜1時過ぎ。朝一番のサントリーニへの飛行機まで空港の待合室で時間をつぶす。パートナーと交代でベンチで仮眠をとる。1991年にアテネを離れるとき、早朝のベオグラード行きの飛行機を待つのに、空港の待合室で同じように時間をつぶしたのが懐かしい。チェックイン開始の案内があったあと、すぐにチェックインを済ませ、搭乗待合室に向かったがそのあとは眠くて覚えていない。席につくなりブランケットをもらい眠る。大きな揺れとともに目が覚めるとサントリーニ島。だだっ広い滑走路の端にぽつんと立っている空港設備。少し小ぎれいになった感はあるものの、……

アポロナス、メラネスと原付でめぐり、ホーラに戻ってレンタルサイクルを返す。スクーターを貸すときに心配そうにしていたレンタルバイク屋のオヤジは、こちらの無事をみてホッするかと思いきや、閉店間際のせいかちょっと無愛想。まあ、こんな感じで自分の気持ちに素直なのがいかにもギリシャ人らしいと思うし、無愛想とはいっても感じが悪いわけではない。……
アポロナスを後にして、メラネスを目指す。ホーラからアポロナスに向かう途中のエンガレスで、メナレスへの方向を示す標識を見つけていたので、まずはエンガレスまで戻る。エンガレスから内陸に入りしばらく走ると、大理石の石切り場が見えてくる。道を間違ったか不安になり始めたころに「Kouros」の方向を示す標識が現れる。この標識、オフィシャルなものには見えず、どこか手作りという趣がある。標識を頼りに進むと、私道のような道に入り込む。道の先は果樹園の入り口。「Kouros」の看板あり、果樹園の方向を指し示している。

「私有地の中のようだけど大丈夫かな?」とちょっと心配しながら、スクーターを入り口に止めて果樹園の中を歩くと、低い石垣で囲まれたスペースに未完のクーロスが転がっている。アポロナスのクーロスとは一回りも、二回りも小さい。このクーロスは右足が折れている。……

今回の旅行は「滞在型のリゾート」がテーマということになった。2つぐらい島を回ろうということになり、ナクソスとパロスに行くことになった。二つの島は近く移動にさほど時間がかからないという理由もあるが、ナクソスにはかねがね見たいと思っているものがあり、さらにパロスは1991年にアテネで知り合った坪井誠司さんのおすすめの島という理由もあった。
ナクソスで見たいと思っていたのが、アポロナスとメラネスにある未完のクーロス。朝から早速、旅行代理店に行って、アポロナスに行く方法を聞く。一言「レンタルバイク」。旅行代理店に紹介されたレンタルバイク屋へスクーターを借りに行く。パートナーは二輪普通車の免許を持っているが、自分は普通四輪車のみ。レンタルバイクのオヤジは免許証を見るなり、……

現代ギリシャ語を勉強しようと思い立ったのが、1998年の冬。その2年後にギリシャを訪れたときにひとつ目的にしていたのが、ギリシャ語の電子辞書(希英辞書)ソフトの購入。「アテネの秋葉原」と呼べる一角があると聞いていた。アテネ国立考古学博物館の近く、アテネ工科大学の近くの通りだそうだ。残念ながらパロス島で風邪をこじらせたパートナーを、シンタグマ近くのホテルに残して、一人オモニア広場方面に歩く。
特に迷うことなく、無事「アテネの秋葉原」に到着。なんてことはない。秋葉原が近づくと、PCソフトやパソコンをウィンドウに並べた店が多くなる。商品数が豊富そうな店を2店舗ほど見つけて、そこでお目当てのギリシャ語電子辞書ソフトを購入。……

前日のタイゲストス山脈越えで疲れきって知らないうちに眠ってしまったが、朝はすっきりと目覚めた。今日はスパルタのアクロポリスを散歩した後、ミストラに向かう。ホテルの小さなロビーで朝食を済ませてチェックアウトし、競技場の裏にあるスパルタのアクロポリスに向かう。夏の盛りの過ぎた日差しは柔らかく、なんとなくすがすがしい気分。アクロポリスに向かう途中には小学校(?)があり、子どもの元気そうな声が響いている。
日本を発つ前、スパルタは見るものもないけど、行ってみればいい。でも観光なんてすぐに終わってしまうと言われていた。ガイドブックを見ても、スパルタにページを割いているようなものはなく、世界遺産のミストラ観光の拠点として扱われる程度のもの。ガイドブックに写真は掲載されていても、競技場の前に立つレオニダス像かアクロポリスの端に残る劇場跡、あるいは柱さえ残っていない遺構の写真。そしてお決まりの文句として、「石がゴロゴロしているだけの廃墟」……
前回は、レンタカーを借りる準備から心構えまでの覚書。今回は4日間の運転で気づいたこと。そして最後のオチ。なお、運転はわたしとパートナーが交代しながらでした。
レンタカーをピックアップした直後に事故発生。レンタカーの駐車場の出口を探していたところ、車の右側を縁石でこする。ものすごい音。左ハンドルで車の幅がいまいちつかめなかった直後の出来事。左ハンドル、右車線を旅行前から脳内シミュレーションしていたものの、いきなりの失敗。しかも、ウィンカーを出そうとしたら、いきなりワイパーが動き出す始末。ワイパーの失敗は何度かやったが、しばらくすると覚える。最初が高速道路でよかった。
高速道路に乗ったらひたすらクルージング。しかしスピードがものすごい。制限速度は時速100kmだが、……
旅行の途中、ナフプリオに長期滞在している知人に会った。レンタカーで旅行していると行ったら、かなり驚かれた。ギリシャに留学している人には、純粋に感心された。想像するに、アテネのあの交通マナーを見ての反応だろう。たしかに大変だったけど、それほど驚かれることでも、感心されることでもないのかなというのが感想。ひとつ大きな失敗もあったけど。以下はレンタカーを借りたときの覚書と、実際に運転して気がついたポイント。

日本で手配。ギリシャ・トルコ旅行に強いメリディアン・ジャパンに手配をお願い。借りたのは、OPEL Astra 1400cc Automatic。オートマティック車というのがポイント。ギリシャでは、……

1991年4月、念願の地ギリシャで観光したのは高校の世界史の教科書に出てきたアテネ、クノッソス、ミケーネ、デルフィ。それ以外にはスニオン、サントリーニ。ミケーネは一日バスツアーを使って訪れ、そのツアーのコースにはナフプリオン、そしてエピダウロスが含まれていた。しかし、当時、ナフプリオンもエピダウロスもどんなところなのかまったく知らなかった。何の予備知識もなく訪れたエピダウロスでその劇場跡を見たとき、その保存状態のよさに驚き、ギリシャにはこんなところがたくさんあるんだろうなぁ、と思った記憶がある。
そのエピダウロスに13年ぶりの訪問。……
ペロポンネソス半島レンタカー旅行最終日、エピダウロスを観光した後ネメアへ。ネメアの遺跡と博物館は15時には閉まるとガイドブックにあったので、焦る気持ちを抑えながら、ナフプリオ、アルゴスを抜け、北上する。アルゴスにも見たいところはたくさんあるものの、欲張っても仕方がない。

柱が5本立っていた
アルゴスを抜けたのが13時頃。1時間ちょっとあれば到着するだろうし、1時間あれば遺跡の全体は見渡せるだろうなと勝手に推測。アルゴスからネメアに向かう道は直線も多く、車も少ないのでどんどん飛ばしてひたすら北を目指す。途中、ミケーネの遺跡が右に見えるが19時まで開いている。よってここは後回し。
14時30分前にネメア到着。早速隣接する博物館を訪れる。この博物館、英語による展示の説明のモデルケースになっているそう。たしかに展示が分かりやすい。英語とギリシャ語が併記されたパネルをふんだんに使って展示品の説明がされているし、ビデオなんかも回っている。ゼウスの神域から発掘された品々は、遺跡を望む部屋に展示されていて、……
アテネに滞在するたびに、アクロポリスには行かないのだけど、プラカには必ず行っている。ニキス通りからキダシネオン通りに入り、アドリアヌ通りをモナスティラキまで歩いて戻ってくるというのが大体のパターン。キダシネオン通りからアドリアヌ通りはプラカの目抜き通りで、アテネを訪れる観光客が必ずといっていいほど歩く通りである。通りの両脇には、みやげ物店や貴金属店、かばん店、そしてタベルナが軒を連ねている。もちろん、ほとんどすべてが観光客目当ての店。多くの店が客引きをやっているし、こちらから店に入ろうものなら、飛んで火にいる夏の虫にもなりかねない。観光客を相手に商売している通りだから仕方がないと言えば、そのとおりだ。一方で、ちょっとしたおみやげ品を探すため、食事をするためには店が揃っているので便利と言えば、そのとおりだ。
13年前に初めてアテネを訪れ、プラカを歩いたときには半ば嫌気がさした。どの店でも客引きが「こんにちは、こんにちは」と日本語で声をかけてくるのだ。「タコ、イカ、おいしいよ」と客引きをしている……
車で旅行するときの、メリットはなんといっても行き当たりバッタリの観光ができること。行きたいところはたくさんあるのですが、すべて回っていたら時間が足りなくなってしまいます。そこで、ある程度行きたいところは決めておいて、あとは、時間と道路地図、自分の記憶、そして「ある標識」に任せます。

“Archaeological Site”はGreekish?
このある標識というのが茶色の地に、黄色い文字のギリシャ語に白文字の英語が併記されている標識。遺跡や博物館が近づいてくると、道端に出てきます。つまり、近くにある遺跡や博物館への方向を教えてくれる標識なのです。……
10月4日、13時過ぎまでオリンピアを観光した後、スパルティ(スパルタ)を目指す。今日の残りは車での移動だ。オリンピアから西のピルゴスへ抜け、そこから海沿いの道を南下、途中のザハロの道沿いにあるタベルナでスブラキを食べ、さらにカロ・ネロへ。ここからから東に向かい、カリビアから再び南下してカラマタを目指す(地図)。

(その急峻さがうまく伝わらない…)
カラマタの街に入った後、スパルタに抜ける道を見落とし、市内で立ち往生。駐車場でラジコン自動車に興じるお兄さんや雑貨屋のお姉さんに道を聞きながらスパルタへの道を見つける。パートナーの運転でスパルタを目指す。これから抜けるのはタイゲストス山脈。タイゲストスは、「スパルタ教育」でおなじみ。スパルタでは子どもが生まれるとまず、ワインの産湯に浸けられ、体が赤くなったりけいれんを起こしてしまう子どもは、虚弱児で国を守るような戦士にはなれないとされ、タイゲストス山へ……
前日は19:00頃オリンピアに到着。あらかじめ目をつけていたHotel Europe(Best Westernチェーン)では空き部屋もあり、すぐに部屋に通される。部屋でひと休みした後、夕食をとオリンピアのはずれコスキナにあるクリタマリアというタベルナに車で向かう。ここは地元ギリシャ人にも評判のお店ということで期待するも、日曜日でお休み。残念。オリンピアに戻り、街の中心のタベルナで食事。その後おみやげ屋に寄って、一昨年コリントスで見つけて買いそびれた“ARCHITECTURE AND CITY PLANNING”(IOANNA PHOCA and PANOS VALAVANIS・KEDROS・ISBN:9600415196)という本を買い、ホテルに戻る。6時間もの運転にすっかり疲れてしまったのか、バスタブに浸かったあと、ベッドに横になっていると知らずと眠ってしまった。
翌日は自然と目が覚める。物音ひとつない静かな中、よく眠れたようだ。テラスに出てみるとオリンピアの村のほうが明るくなろうとしていた。ヴァッフェ形式の朝食をとってチェックアウトし、早速オリンピアの遺跡に。とにかく広い。……
オリンピア考古学博物館で展示品を見ていたときの不思議な体験。

オリンピアの博物館の珠玉のひとつが、プラクシテレスの手によるデュオニッソスをあやすヘルメス像。この像は博物館入って奥の右側の部屋に展示されていて、しかもそのほかの展示品がないため、その部屋はこの像専用の部屋といっても過言ではない。その博物館がもっとも大切にする展示品に専用の部屋が割り当てられているというのはよくあることだ。
この部屋で一人になったとき、「ラッキー!」と思った。ゆっくりと像を眺めることができるから。しかし、……
偶数年は必ずギリシャを訪れる年。アテネオリンピックが話題になった2004年の今年はパラリンピックも終わった10月2日から10日まで。今回はペロポンネソス半島を本格的に巡った。しかもレンタカーを借りるという自分の海外旅行歴の中では初の試み(?)。そして、何よりもよかったのが、7年来の希望だったバッサエのアポロン・エピクリウス神殿を訪れたこと。このブログでも何度か取り上げたあのバッサエ。

バッサエは、川島重成氏の著書『ギリシア紀行―歴史・宗教・文学』(岩波現代文庫)でその存在を知り、その容貌を『イタリア・バチカン・ギリシア・マルタ 世界遺産を旅する―地球の記録』(近畿日本ツーリスト)で知ってから。……
なにかギリシャ人そしてギリシャが好きな人には申し訳ないタイトルですが、本日3月25日はギリシャ独立記念日。それにあわせてわたしのこの日の思い出を。
1991年3月、当時大学一年生だったわたしは、高校二年生以来の夢であったギリシャ旅行を実現させました。アテネに入ったとき、夢を実現させ気持ちは最高潮。ただ、ギリシャ旅行とはいっても日本を離れたのは2月半ば。新潟からハバロフスクにそこからシベリア鉄道に乗ってモスクワ。そしてポーランド、ドイツ、オーストリア、イタリアと旅行し、何事もなかった私はちょっと調子に乗っていました。アテネでは現地の人々とも、そして同じ日本人旅行者とも仲良くなり、すべてが万端だと思っていた。これがダメだったんですね。クノッソスに行こうと夕方クレタ島に渡る日のお昼、暴力バーにやられました。コーヒー一杯で7,000円。しかも軽い睡眠薬入り。これが3月22日のこと。とにかくお金を払ってすぐに店を出て、そのままフラフラになりながらタクシーに乗ってピレウスへ。ゆっくりとピレウスの風景も見る余裕もなく、幸いにもスケジュールより早く岸壁についていたクレタ行きのフェリーに乗船しました。あとは船室で眠るのみ。夜中に一度気持ち悪くなってトイレに言ったこと以外は覚えていません。気が付いたらクレタ島のイラクリオン到着。……